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2015年 5月 1日 小林先生の「ちょっとした思考講座~PART2~」
みなさん、こんにちは。
連日の登場です。東進荻窪校の小林建介です。
今日は「暖かい」というよりは、「暑い」日ですね…
こんな暑い日には、コーヒーと抹茶あんみつを食べながら本でも読みたい小林です。
しかし「いきなり」熱くなるこの時期には注意してくださいね。
小林の大学の友人も気温についていけず体調を壊しています。。。
受験生をはじめとする高校生のみなさんも体調にはくれぐれも気を付けてくださいね。
さて今日のブログでは、「身体」について触れたいと思います。
小林が通っている早稲田大学文化構想学部ではこの類の学問・授業が数多くあります。
その基礎的な考え方を小林なりに紹介します。(大学の授業紹介だと思って読んでください)
でもなるべくみんなが理解しやすいように、受験や高校生になじみやすい例を出していくつもりです。
みなさんは「身体」と聞いて何を思い浮かべますか???
身体測定?
身体能力?
考え付くものは人それぞれでしょう。
ここでいう「身体」は文字通り、人間のからだと読み取ってもらえれば問題ないです。
でも身体って面白いんですよ~
ちょっと余談。
”自分―他者”という身体関係は互いのことが見える為、対象性が成り立ちます。
では
”自分―自分”はどうでしょうか。
自分で自分の姿を見ることはできません。自分で自分にキスをすることはできませんし、持ち上げることもできません。自分は”自分”のことを何もわかっていないんです。このブログを読んでいるキミは”キミ”自身のことをよく分かっていないんです。そう考えると、鏡が発明されたことは自己論を考える上でとても大きな意味を持っているのです。
はい、長くなるから余談終わり(笑)
社会学における「身体」はしばしば「メディア」と合わせて考察されることが多いです。なのでメディアの定義も確認しておきます。
このブログで発言するメディアはマスメディア(情報伝達手段)ではなく、「媒体」という意味で用います。(ものごとAとものごとBの間に入り込んで仲立ちをするもの、と考えてください。)
このメディアは、「身体の行動可能領域を延長する働き」を持っています。
これが今日一番言いたかったことです。
たとえば、映画というメディアは自分という身体では見ること・体験することができない世界を映してくれます。車は自分では達することのできないスピードで移動することを可能にしてくれるし、英語の授業という媒体は自分では理解しにくい文法、構文を読むことを可能にしてくれます。
このようにメディアは自分という限界のある身体をキャパシティ以上の働きができるように助けてくれるのです。
そしてこのメディアは自然発生的なものではなく、文化的生産物であることが極めて多いです。
考えてみれば納得できると思います。人間の助けになるものは人間が作ります。(偶発的にできた場合もありますが…)
またメディアはすべてが目に見えるものというわけではありません。
たとえば「言語」というメディアは人間のコミュニケーションを容易にしました。これも立派なメディアの一つです。
最後のほうは駆け足となってしまいましたが、身体とメディアは密接な関係にあることが分かったと思います。
小林が通っている文化構想学部ではこうした学問をとことん深くまで学習できたりします。
もし興味があったり、話を聞いてみたいと思った人がいたらぜひ小林と語り合いましょう!^^
どうして今日のブログでこんな話をしたかといいますと、2015年度のセンター試験の評論に文化構想学部の教授の書いた文章が出題されたからです。
佐々木敦先生の『未知との遭遇』(筑摩書房、2011年)が出題されたのです。
佐々木先生の講義は受けたことはありませんが、親近感が湧いたのでこうして書かせてもらいました。
しかし同時にこうしたメディア論とか他者論、サブカルチャー論といった内容の文章が近年出題されてきているのも知っておいてほしいです。
実際佐々木先生の文章もツイッターに関する文章でしたし…
法学部だったら政治・法律の文章を読めればよい
文系だから理系の文章でないだろう
といった固定概念を捨てていろいろな分野の基礎知識に富んでいてほしいです。
そのきっかけとして、身体とメディアについてお話しさせてもらいました。
よし、では今日も頑張っていきましょう!
おわり!
小林 建介